私の懐古録 代官山 昭和50年代…07
「代官山クリニック」2
会社には、「漫画制作部門」があった。部長はTK田氏、隔週青年誌YCで連載をしていた。リアルな時代劇で、歴史学者から、漫画なのに歴史的事実に元づき時代考証がしっかりしている、と言われていた。
そのTK田氏の下に、4人のチーフがいた。
一般週刊誌Pに時代劇画(当時は劇画と呼称していた)を連載しているKS見氏、半年前まで青年劇画誌に連載を持っていたHY崎氏。青年劇画誌Pに刑事物を連載しているS作K氏、そして少年週刊誌Sに連載を持っているYK山氏がいた。
皆、有名な劇画作家TS藤先生のプロダクションにいたメンバーが、独立し作った会社だった。
名をスタジオ・オリオンとよんでいた。
会社の組織もTS藤先生のプロダクションとほぼ同じだった。チーフの下にサブ・チーフがいて、その下にスタッフがいた。そして漫画制作部には資料室なるものもあった。
シナリオ脚本部は、できたばかりなので机と椅子しかなく、資料などとよべるものはなかった。
私はよく漫画制作部の資料室を訪れた。
その日も資料室で大型写真集を見ていた。アメリカの有名な写真誌ライフで、衝撃的なシーンを乗せることで有名だった。ノルウエーの湾でのクジラ解体の様子が載っていた。湾の中はクジラの血で橙色に染まっていた。本当は真っ赤なのだろうが、印刷の関係で橙色というかくすんだ色になっていた。くすんだ赤でもその色は衝撃的だった。見開き2ページを1枚の写真で埋めているそのページは、私の脳を刺激した。
ほかのページに移れず、数分ばかりみつづけていた。
その時、制作室のほうで騒ぎ立てる声がきこえてきた。だれかが倒れたらしい。慌てて駆けつけてみると、サブチーフのS田氏が、胸を押さえて倒れていた。ハアハアと不規則な息遣いの間からヒューヒューという異音が聞こえる。私の知らない病気のようで、うろたえた。
「大丈夫か?」
「呼吸が変だぞ」
つ言う声が飛び交っている。
誰かが「救急車だ、だれか電話をしてくれ」と叫ぶ。
携帯電話などない時代だった。事務室にしか電話はなかった。同僚が事務室に走る。
その時とっさに、自分が腰を痛めた時のことを思い出した。
「そうだ、代官山クリニックに運んだほうが、救急車より早いかも…」
というと、チーフのKS作氏がうなずいた。
「あそこなら、5分もかからずに運べる」
背の高いスタッフが両側から肩を貸し、S氏を連れて行った。
S氏は、180センチぐらいの長身だった。私は165センチ、何の役にも立たなかった。
S氏は代官山クリニックに運ばれた。
救急車はそれから10分以上たって会社に到着した。
夜間ではあったが、当直の先生がいて、すぐに診てくれた。
S田氏は、それから2週間ほど入院していた。病名は肺気胸。私が初めて聞く名であった。肺に穴が開き、そこから空気が漏れ、肺が小さくなる、という病気らしい。10歳代後半から20歳代、30歳代のやせ型の男性に多い病気だという。
そういえばS氏は、180センチ近い身長のやせ型、スタイルの良いイケメンだった。
明らかな理由もなく発生する自然気胸は、いまだに原因がわかっていないといわれている。
そのため治療法もなく、安静にして自然に穴がふさがるのを、待つだけだという。
S氏も、入院して数日して肺に空いた穴がふさがったらしい。
2週間後、職場に復帰したS田氏は、元気な体でいつもと変わらぬ陽気さをふりまいていた。
代官山クリニックは、私が抱いていた金持ち専用の病院というイメージとは、まったくちがっていたのだ。
普通の田舎の診療所と、中身は少しも変わらなかったのである。