私の懐古録 代官山 昭和50年代…09
その日も最終電車に乗り遅れた。何しろ夜10時20分を過ぎると帰れなくなるのだ。
東横線の10時24分発の代官山発の電車に乗り、渋谷で山手線に乗り換えて、外回りで日暮里まで行く。
そこで常磐線の取手ゆき最終電車に乗り、柏まで約一時間弱、そこで寝てしまうと終点の茨城県まで行ってしまう。そうすると国道6号線の水戸街道を歩いて帰ってくるしかない。
そんなことが数回あった。
普通に柏の自宅についても午前1時を回っている。
翌朝、10時まで出勤するには午前8時には、自宅を出なければいけなかった。ラッシュアワーの常磐線に乗るのは、心情的に嫌だった。
それなら、会社のスリーピングルームに泊まったほうが、睡眠はとれるし、ラッシュも経験しないですむので、勢いスリーピングルームに泊まることになる。
その日も、漫画制作部の部屋に入り込み、スタッフが作画している横でおしゃべりをしていた。
その時、サイレンの音が遠くから響いてきた。その音は徐々にこのビルに近づいてくる。
「おい、ここにむかってきていないか?」誰かが叫んだ。
だが、消防車はビルの前を通過して駅のほうに向かっていった。
そして、あの高級マンション東急Dに入っていった。
私たちは慌てて会社のビルを飛び出し、駅前のマンションに向かった。
その間にも、続々と消防車が集まってきた。赤色灯を回転させながら…。
東急Dの上のほうの階から、白い煙があがり始めた。
消防士は、手際よく丸めてあるホースを解き始め、消火栓に取り付け始めた。ホースが膨らみ水がはいっていく。まるで、蛇がのたうつようにぐてんぐてんと、地面をたたきながら太くなっていった。
ホースには小さい傷というか穴のようなものが開き、そこから細い水がふきだしている。まるで噴水のようだった。噴水はのたうち回っているホースのあちこちから噴き出していた。
その噴水をよけながら私たちは高級マンションを見上げていた。
まもなく煙は収まり、ホースの噴水が小さくなり、消防のホースもペタンコになっていった。
「なんだ小火だったのか…」と誰かが言った。
その言葉には、もっと派手に燃え上がってほしかったという期待がこもっているようだった。
まもなく救急車がきたが、私たちは会社に戻った。
無事に済んでよかったという気持ちと、もっと派手に燃え上がってほしかったという気持ちが重なり合って、複雑な心情になった。
だが、この火事の裏側には、大きなドラマがあることを翌日になって知ることになる。
私の懐古録 代官山 昭和50年代…8
「高級マンション」1
私の記憶が正しければ、代官山駅前の高級マンションは「東急Ⅾ」という名前だったような気がする。
そのマンションは、広い駐車スペースがあり、よそ者が入りがたい雰囲気であった。まるでプリンスホテルや帝国ホテルの正面玄関前の感じだった。
代官山は多くの芸能人が住んでいるという噂である。
実際に私の会社があるビルには、ちょっと前に(昭和50年代以前)アイドル的存在だった長沢純という歌手が通ってきていた。芸能事務所があるらしい。
東急Ⅾにも、有名人が住んでいると噂されていた。
私が聞いた名前では、渥美清、アントニオ猪木夫妻(妻 倍賞美津子)などがいるという。
ある時、漫画制作部の新人スタッフUが、泊まり込みで仕事をしていた。
眠気覚ましと一服するため散歩していると、横にタクシーが止まった。乗客が下りてくる様子である。
だれだろうか?と、植え込みの陰で煙草に火をつけ、興味本位で見ていた。
降りてきたのはちょっと横幅のある中年のおっさんだったという。
なんだと思い、そのおっさんを追い越していくと、横顔がだれかに似ていた。
あっ、フーテンの寅さんだ。と思い、振り返る。
フーテンの寅さんは顔を隠すようにして、くるりとターンをし、タクシーがきた方向へ、足早に去っていく。
慌てて後をつける新人スタッフUだが、寅さんの足は速く、渋谷方向に向かう細い路地で、まかれてしまう。
高級マンションはすぐそこなのに、と反対方向に去っていった寅さんを見送っていたそうである。
有名人を身近で見てドキドキがおさまらない彼は、電信柱の陰で、あの高級マンションを見張っていた。
4本ほどタバコを吸うと、少しは落ち着いた。
やっぱり人違いだったか…。
そろそろ会社に戻ろうと、吸い殻をサンダルで消したとき、寅さんが不審者のようにきょろきょろしながら、高級マンションの庭に現れ、顔を隠すように玄関から入っていったというのである。
会社に戻ると、新人スタッフUは興奮して寅さんのねぐらを突き止めたよ、と私たち泊組に話していた。
私たちは「またあ…」と、疑っていた。
彼はうわさ話などをでっちあげるのが、得意だったからである。彼が言うことは、半分以上が彼の願望だった。
代官山の駅から左折し、旧山手通りを下ると駒沢通りに出る。右折して線路沿いを10分ほど歩くと中目黒駅にでる。
今では若者向けのおしゃれなお店が立ち並んでいる中目黒だが、昭和50年代は、赤ちょうちんが並ぶ街だった。
その中の一軒のAという店が、私たち新人の夜食兼飲み屋だった。
ホッピービアが置いてあって、いくら食べても飲んでも1000円でおつりがくるというところであった。
そんなある日、漫画制作部のサブチーフKⅠ賀氏とAで飲んだ帰りのことだった。
気持ちよい酔いで、駒沢通りを代官山に向かっていた。会社のスリーピングルームに泊まる予定であった。
人気は少なく、私たちの前を肩幅の広いがっしりした中年のおっさんだけが歩いていた。建築、土木関係のおっさんだろうと思い声をかけた。
「気分いいですね、こんな月夜は…」
「え、ああ、そうですね」
返事は、かなり紳士的だった。建築関係じゃないのかな?
「おじさんも、気分良く飲んできたんでしょう?」
「あ、いえ私は…。急ぎますんで、失礼します」ちらりとこちらに顔を向け、足早に去っていった。
私は驚いて、声が出なかった。渥美清氏であった。立ちすくんだまま、動けなかった。
I賀氏が「どうしたの? 知ってる人」と気づかないでいた。私が、渥美清だよと教えると、え、ほんと後をつけようぜ。ほんとにあの高級マンションに入っていくか確かめなきゃ。
I賀氏は、足早に去る影を追いかけた。私はそこから離れることができなかった。
それまでに、いわゆる有名人にあったのはこれが2人目だった。いなか育ちの私は、故郷の集会所近くの公園で、選挙の応援に来たジャイアント馬場を見て以来だった。顔が大きく、胸板が鉄板のような人という印象だけが残っている。
今回で2人目だ。たかがTVの画面やスクリーンで見る人に興奮して、何もできないでいる自分が、なさけなかった。
そこにI賀氏が戻ってきて「やっぱりあの高級マンションに入っていったよ。新人スタッフU君の言ったことは、本当だったんだ。時には彼も本当のことをいうんだな」
あの時、信じないで悪かったと思ったが、それよりも有名人を前にして、怖気ずに後をつけていく、彼らの勇気に感心した。私は、まったく動けなかったのだから。
最近、朝日新聞で「フーテンの寅さん」の監督山田洋次氏がインタビュー記事で、「主演の渥美さんは、自宅のちょっと手前でタクシーを降りて、少し歩いて自宅のマンションに入る」というようなことを言っていた。
あれがそうだったのだな、と思った。
私の懐古録 代官山 昭和50年代…07
「代官山クリニック」2
会社には、「漫画制作部門」があった。部長はTK田氏、隔週青年誌YCで連載をしていた。リアルな時代劇で、歴史学者から、漫画なのに歴史的事実に元づき時代考証がしっかりしている、と言われていた。
そのTK田氏の下に、4人のチーフがいた。
一般週刊誌Pに時代劇画(当時は劇画と呼称していた)を連載しているKS見氏、半年前まで青年劇画誌に連載を持っていたHY崎氏。青年劇画誌Pに刑事物を連載しているS作K氏、そして少年週刊誌Sに連載を持っているYK山氏がいた。
皆、有名な劇画作家TS藤先生のプロダクションにいたメンバーが、独立し作った会社だった。
名をスタジオ・オリオンとよんでいた。
会社の組織もTS藤先生のプロダクションとほぼ同じだった。チーフの下にサブ・チーフがいて、その下にスタッフがいた。そして漫画制作部には資料室なるものもあった。
シナリオ脚本部は、できたばかりなので机と椅子しかなく、資料などとよべるものはなかった。
私はよく漫画制作部の資料室を訪れた。
その日も資料室で大型写真集を見ていた。アメリカの有名な写真誌ライフで、衝撃的なシーンを乗せることで有名だった。ノルウエーの湾でのクジラ解体の様子が載っていた。湾の中はクジラの血で橙色に染まっていた。本当は真っ赤なのだろうが、印刷の関係で橙色というかくすんだ色になっていた。くすんだ赤でもその色は衝撃的だった。見開き2ページを1枚の写真で埋めているそのページは、私の脳を刺激した。
ほかのページに移れず、数分ばかりみつづけていた。
その時、制作室のほうで騒ぎ立てる声がきこえてきた。だれかが倒れたらしい。慌てて駆けつけてみると、サブチーフのS田氏が、胸を押さえて倒れていた。ハアハアと不規則な息遣いの間からヒューヒューという異音が聞こえる。私の知らない病気のようで、うろたえた。
「大丈夫か?」
「呼吸が変だぞ」
つ言う声が飛び交っている。
誰かが「救急車だ、だれか電話をしてくれ」と叫ぶ。
携帯電話などない時代だった。事務室にしか電話はなかった。同僚が事務室に走る。
その時とっさに、自分が腰を痛めた時のことを思い出した。
「そうだ、代官山クリニックに運んだほうが、救急車より早いかも…」
というと、チーフのKS作氏がうなずいた。
「あそこなら、5分もかからずに運べる」
背の高いスタッフが両側から肩を貸し、S氏を連れて行った。
S氏は、180センチぐらいの長身だった。私は165センチ、何の役にも立たなかった。
S氏は代官山クリニックに運ばれた。
救急車はそれから10分以上たって会社に到着した。
夜間ではあったが、当直の先生がいて、すぐに診てくれた。
S田氏は、それから2週間ほど入院していた。病名は肺気胸。私が初めて聞く名であった。肺に穴が開き、そこから空気が漏れ、肺が小さくなる、という病気らしい。10歳代後半から20歳代、30歳代のやせ型の男性に多い病気だという。
そういえばS氏は、180センチ近い身長のやせ型、スタイルの良いイケメンだった。
明らかな理由もなく発生する自然気胸は、いまだに原因がわかっていないといわれている。
そのため治療法もなく、安静にして自然に穴がふさがるのを、待つだけだという。
S氏も、入院して数日して肺に空いた穴がふさがったらしい。
2週間後、職場に復帰したS田氏は、元気な体でいつもと変わらぬ陽気さをふりまいていた。
代官山クリニックは、私が抱いていた金持ち専用の病院というイメージとは、まったくちがっていたのだ。
普通の田舎の診療所と、中身は少しも変わらなかったのである。
私の懐古録 代官山 昭和50年代…6
「代官山クリニック」 1
駅前の高級マンションを回ると、旧山手通りに向かう道に出る。
右に曲がり少し行くと、道路の向かい側に「代官山クリニック」の看板が見える。
5階建てのマンションの一階部分にそのクリニックはあった。入り口は半地下だったが、玄関はおしゃれなつくりとなっていた。
昭和50年代は、病院か診療所、医院という名称が多かった。病院というのは、大きな入院施設を持った大学病院のことで、町中にあるのは、医院や診療所が多かったと思う。「クリニック」などと、おしゃれな名前を付けた病院は映画やテレビドラマのなかだけだった。
いや、実際にはたくさんあったのだろうが千葉の田舎から出てきた私には、初めて見る「クリニック」だったので、ドラマの一シーンを見ているような気分だった。
「クリニック」なのだから、いかにも診療費などが高そうで、金持ちや有名人相手の医院なのだろう。私が通うことはないと思っていた。
ある日、私は椅子から立ち上がろうとして、こけた。
腰をひねった瞬間ピキッと音がして力が抜けていく。転がった。声も出せないくらいに痛い。
幸い会社だったのでラッキーだった。これが自宅の安アパートだったら誰にも気づかれずに、転がったままだったろう。
そばにいた事務員が心配して「だ、だいじょうぶですか、立ち上がれます?」と声をかけてくれた。もう一人の事務員が「ぎっくり腰じゃない?」などと言っている。
ああ、そうか、これが世にいう「ぎっくり腰」かと頭をよぎった。
もし、そうなったら1週間程度休まなければいけないかもしれない。入社したばかりなのに1週間も休んだら、馘首(クビ)かもしれない。
私は机に手をかけて、事務員の助けでよろよろと立ち上がった。
腰は曲がったままだ。ただ、痛みが少しは和らいできた。
「救急車を呼んだほうがいいんじゃない?」
「いや、そこのクリニックに行ったほうが、早いわよ」
「歩けます」
「ええ、何とか…」
痛みが少し落ち着いてきた感じだった。
ということで、あの代官山クリニックで、診察を受けることとなった。
まるで安直なドラマの脚本のような展開だ、と思った。
クリニックの中は最新の医療機械が並んでいた。これは高い治療費を取られるな、痛さに耐えながらもそんなことを考えていた。
金は足りるか…?
診察台に上半身裸でうつぶせに寝かされた。ズボンとパンツをもっとおろして、と言われながら、尻の割れ目のあたりまでおろしたことを覚えている。白衣の看護婦(当時は婦だった)。美人という先入観もあった。恥ずかしいと思った瞬間、中年の先生の冷たい手が腰を中心に、あちらこちらを抑えだした。
痛いところと、痛くないところを探っているようだ。
「痛み止めの注射を打っておくから、2時間ほど安静にして様子を見ましょう。それでも痛かったら、またその時に考えましょう」と言って、帰された。
即入院とならなかったので、助かった。私の汚いラフな格好(Gパンにポロシャツ)を見て、入院させて治療費をとりっぱぐれたら、困る、とでも思ったか、そそくさと治療を終えた。
治療費は、普通に健康保険がきいて安かった。別に有名人や金持ち専用の病院ではなかったのか…。
クリニックという名前を付けていても、医院や診療所と変わりはなかった。ただ、看護婦は美人だった。
私の懐古録 代官山 昭和50年代…5
「スリーピングルーム」
ある日、習作を続けていると突然に仕事(?)が舞い込んだ。
レギュラーで漫画原作を描いていた先輩ライターが病気で倒れた。
「巨乳デカ」の前編を書いて、後編が出来上がらない、ということだ。
漫画家さんに渡す原作の期限は、とっくに過ぎている。漫画家は、ぎりぎり今日中にもらえれば、何とかすると言っているらしい。
お話は、犯人たちが子供を人質を取って大物議員の私邸に立てこもった。犯人たちはマシンガンや銃やサバイバルナイフをもっている。主人公の巨乳デカが、丸腰で単身、私邸に乗り込む。主人公は両手を上げばんざいの格好で、ドアを開けて入っていく。待ち構える犯人たちは、銃の安全装置を外す。人質の大物議員の子供の泣き顔、というシーンで、続くとなっていた。
この続きを書けという指示である。締め切りは今夜の11時、今は午後4時。6時間あまればなんとかなる。ギリギリ終電に間に合う時間だ。
話は簡単で、人質の子供を無事助けて、犯人を逮捕する。それも主人公の巨乳デカの派手な活躍によって。そして最後に警察署のデカ部屋で、よかった、よかった。ご苦労さん。で打ち上げシーンになればよいだけだった。
その頃、流行っていた刑事ドラマの定番の展開である。
ただ、犯人逮捕のアイディアが出せればよいだけだった。
ナイフや拳銃をちらつかせる犯人たち4人。こちらは1人の主人公だけ。無腰で武器を一切持っていない。言葉の説得に応じるタイプではない。凶悪な犯罪者タイプの犯人たちは、主人公をいたぶる。
そこからどうやって逆転をし、子供を無事助け、犯人を逮捕するのか?
私は、まず「巨乳デカ」これまでの話を読み始めた。初めて読む作品で、知識は全くなかった。どんなキャラで、何をもって事件を解決しているのかを知りたかったのだ。
主人公は、持ち前の巨乳を利用して解決していた。しかしそのアイディアは過去3話で使われていた。また今度も…、となるとまた同じ手か、と思われて読者が離れてしまう。なんとしても新しいアイディアで解決しなければいけない回だった。
同期のS氏は、その巨乳アイディアで書いたようだった。主人公を全裸にし、おっぱいを強調する。それに目を奪われた犯人の一部を倒し、皆を倒すというアイディアだ。
M氏は、無理だよ、にっちもさっちもいかない。と言って解決せずに、後編を終わらせることなく、続く、にしていた。
主婦作家のTさんは、相変わらず人情物作家らしく、泣き落としで犯人を降伏させていた。
私は、とりあえず第3話までを読み終えて、腹が減ったので、S氏とM氏を誘って駅の近くにある中華屋SL軒にチャーハンを食べに行った。
そこでM氏が、先輩のライターも、この部分に悩み、アイディアがでなくてにわか病気になったのかもね。冗談だけど…。などと言っていた。
食事をしたので、眠くなった私は2階にある「スリーピングルーム」で、仮眠をとることにした。
「スリーピングルーム」などとしゃれた名前がついていたが、リノリュームの床にカーペットを敷いて、その上にぺったんこの敷布団と掛け布団があるだけ。そこで雑魚寝をする部屋だった。
いつ掃除をしたのかわからないように、いつも異臭がしていた。しかし公然と眠れるのは、その場所だけだった。
私は、その場所で眠ろうとしたのだが、仕事部屋ではあくびが止まらなかったのに、締め切りへの不安が胸の内にわいてきて頭がさえてきた。「スリーピングルーム」では眠れなくなっていった。
仕方なく「巨乳デカ」を考えていた。主人公を活躍させるには、裸を出さなければいけない。全裸でなくてもせめて巨乳は絵で見せる必要がある。子どもは無傷で助ける。さらには素手で格闘は無理なので、武器が欲しかった。拳銃か、ナイフか、爆発物かを。
しかし頭の中は、同じ所でぐるぐる回っていて先に進まなかった。そのうちに眠ってしまったようだった。
午後10時ころ心配したS氏が起こしに来てくれて、目覚めた。
締め切りまであと一時間、私はまだ覚醒していない脳で、「巨乳デカ」の前編を読み返していた。
話よりも絵を追っていたような木がする。すると犯人たちが立てこもった居間の端のほうに、日本刀が描かれていた。いかにも雰囲気を出すために漫画家が勝手に描いたものだった。原作者が意図をもって描かせたものではない。
これだ! これを使おう、とすぐに原稿用紙に向かった。
そして締め切りの午後11時にぎりぎりまにあって提出できた。
結果、私のが採用された。
その後、若干の書き直しなどがあって、終電には間に合わず、あの「スリーピングルーム」に泊まることになった。
臭くて嫌な臭いだったのが、その夜は心弾む匂いに代わっていた。
私の懐古録 代官山 昭和50年代…4
S氏は,私より少し年上だった。
子供向け番組の企画、制作、脚本化にはたくさん携わってきたという。
今回の大手映画会社は、子供向け番組を軽く見ていたようだ、と言っていた。
そのため子供向け番組の作り方を理解していないらしい。
だから本社の若手プロジューサーが、でてきたというのだ。
先日、私の企画書をほめてくれたのがその人らしい。
適当にまとめ上げて提出しても、企画は通るだろうとS氏は言った。
しかし当時のTV 業界は、「ウルトラマン」などヒット作品が次々と生み出され、レベルはあがってきていた。
下手な企画書などでは没になる可能性があった。
ここは真面目に取り組んで、シナリオの一角にくいこまなければいけない。
私はチャンスかもしれない、と思った。
ここで認められれば、名前をあげられるかもしれない。
今まで適当にやっていた私は久しぶりに、真面目に取り組んだ。
S氏はホテルのラウンジやクラブなどに連日通い、適当に企画書をでっちあげている。
私は私の持っているSF的知識を駆使して「円盤戦争」なる企画をまとめた。
S氏はそれを読み「うん、いいんじゃない」といってくれた。
最終日に、
「これ、俺のと一緒に、だしておくよ。ごくろうさん」
とホテルをあとにした。
S氏は、シナリオライターなどではなく大手映画会社から派遣された、私の見張りだったと後から聞いた。
私は自分の持てる力を、十分に出し切ったつもりで来春の放映に期待した。
だが、春になっても撮っている、という噂は聞こえてこなかった。
もちろん放映はなく、放映日から10日ほど過ぎたあたりに、あの企画は没になったとS氏から電話があった。
「やはり…」
と思った。とっかかりのところから調子よく行き過ぎて、一流ホテルに缶詰めになり、さらに大きな直しもなく、OKが出たことに不安は感じていたが、やはり不採用だったのは、ちょっぴり期待していただけに残念さを感じた。
TVドラマや映画の企画は、結果が出るまで時間がかかるので、やめようとも思った。
実はそのころ、劇画の原作をいくつかやっており、作品化されるのに一か月もかからなかった。シナリオはすぐに絵になった。文章が絵になったのを見るのは、感動だった。
早ければ、1週間もかからずに絵になっていた。わたしは劇画原作にのめりこんでいった。
子供向け番組のことなどすっかり忘れていた。
それから半年後
「『円盤戦争○○○○』というのがはじまっているぞ。あれ、おまえが企画したんじゃないか?」と友人から言われた。
30分番組のその作品を視聴してみると、確かに私の企画したものに似ていた。しかし、微妙だった。40~50パーセント似た部分はあったが、他は別の創作だった。
これは、エンディングのスタッフロールにあのS氏の名前があるのでは、と探したが、なかった。
S氏に盗作されたのではないか、と考えた自分を恥じた。
業界には、いろんなケースがあることをその時に知った。
私の懐古録 代官山 昭和50年代…3
たんなる習作を繰り返しているだけなので、作品に心が集中できなかった。
思い付きをてきとうに書いていく日々が続いた。
いつもの悪い癖が出たのだ。よい評価は出ない。
同期入社のほかのものは、小さいながらも掲載されるものを書いていた。
企画書を作る作業も多かったが、どうせ形にならないだろうと、定番のものを提出していた。
そんな中、子供向けのSF番組の企画書が大手映画会社のプロデューサーの目に留まったようだった。
この企画を練り上げて来春放送予定の夜6時台の子供番組にしたい。
ついては、来週から1週間Pホテルに泊まり完璧な企画書を練り上げてほしい、ということだった。
私は、ホテルに缶詰めなどということは、話には聞いていたけれど、実際にあるとは思っていなかったので、話半分にきていた。
あんな適当にでっち上げた企画にのるなんて、胡散臭い話だ、と思っていた。
同席していた専務は、素晴らしい、ぜひ放送にこぎつけよう、とはしゃいでいる。
翌週からPホテルに缶詰めとなった。企画立案には大手映画会社からシナリオライターがきた。S氏である。2人で1週間かけて企画書を創り上げていくことになる。