私の懐古録 代官山 昭和50年代…09

その日も最終電車に乗り遅れた。何しろ夜10時20分を過ぎると帰れなくなるのだ。 東横線の10時24分発の代官山発の電車に乗り、渋谷で山手線に乗り換えて、外回りで日暮里まで行く。 そこで常磐線の取手ゆき最終電車に乗り、柏まで約一時間弱、そこで寝てしま…

私の懐古録 代官山 昭和50年代…8

昔、東急Dのあったあたり。今は工事中。 「高級マンション」1 私の記憶が正しければ、代官山駅前の高級マンションは「東急Ⅾ」という名前だったような気がする。 そのマンションは、広い駐車スペースがあり、よそ者が入りがたい雰囲気であった。まるでプリン…

私の懐古録 代官山 昭和50年代…07

代官山クリニックがあった場所 「代官山クリニック」2 会社には、「漫画制作部門」があった。部長はTK田氏、隔週青年誌YCで連載をしていた。リアルな時代劇で、歴史学者から、漫画なのに歴史的事実に元づき時代考証がしっかりしている、と言われていた。 …

私の懐古録 代官山 昭和50年代…6

代官山クリニックがあった辺り… 「代官山クリニック」 1 駅前の高級マンションを回ると、旧山手通りに向かう道に出る。 右に曲がり少し行くと、道路の向かい側に「代官山クリニック」の看板が見える。 5階建てのマンションの一階部分にそのクリニックはあっ…

私の懐古録 代官山 昭和50年代…5

「スリーピングルーム」 ある日、習作を続けていると突然に仕事(?)が舞い込んだ。 レギュラーで漫画原作を描いていた先輩ライターが病気で倒れた。 「巨乳デカ」の前編を書いて、後編が出来上がらない、ということだ。 漫画家さんに渡す原作の期限は、と…

私の懐古録 代官山 昭和50年代…4

S氏は,私より少し年上だった。 子供向け番組の企画、制作、脚本化にはたくさん携わってきたという。 今回の大手映画会社は、子供向け番組を軽く見ていたようだ、と言っていた。 そのため子供向け番組の作り方を理解していないらしい。 だから本社の若手プロ…

私の懐古録 代官山 昭和50年代…3

たんなる習作を繰り返しているだけなので、作品に心が集中できなかった。 思い付きをてきとうに書いていく日々が続いた。 いつもの悪い癖が出たのだ。よい評価は出ない。 同期入社のほかのものは、小さいながらも掲載されるものを書いていた。 企画書を作る…

私の懐古録 代官山 昭和50年代…2

令和5年の代官山駅ホーム 新しくできた「シナリオ脚本部」は3階のエレベーター脇にあった。 できたばかりのせいか、中には机と椅子が5台あるだけだった。 みな壁に向かって並んでいた。原稿を書く際に、お互いが邪魔にならぬように、間仕切りもついていた。 …

私の懐古録 代官山 昭和50年代…01

01今の代官山駅 昭和50年代は、私にとって見るもの聞くもの何もかもが珍しいものだった。 限りなく茨城県に近い千葉に住んでいた私は、東京代官山の会社に入った。 通勤時間は2時間。山手線に乗るまでに1時間はかかるところに住んでいた私には代官山は見知ら…

銀杏をなんとよむのか? ?

銀杏と書いてなんと読むのか? イチョウか、ギンナンか? 広辞苑には、どちらもある。イチョウは、落葉高木、中国からわたってきたようだ。 ギンナンは、イチョウの種子とある。 ちなみにイチョウには、公孫樹と鴨脚樹がある。 三省堂の「明鏡国語辞典」には…

銀杏を食べたい!!

家の近くにイチョウ並木の道路がある。やっと黄色になり葉が落ち始めた。 落ちてくるのは葉だけではなく、ギンナンも落ちてくる。 女イチョウの木からは、毎朝たくさんのギンナンが落ちていて、歩行者に踏みつぶされている。 においが相当に広がっている。 …