私の懐古録 代官山 昭和50年代…4


S氏は,私より少し年上だった。

子供向け番組の企画、制作、脚本化にはたくさん携わってきたという。

今回の大手映画会社は、子供向け番組を軽く見ていたようだ、と言っていた。

そのため子供向け番組の作り方を理解していないらしい。

だから本社の若手プロジューサーが、でてきたというのだ。

先日、私の企画書をほめてくれたのがその人らしい。

 

適当にまとめ上げて提出しても、企画は通るだろうとS氏は言った。

しかし当時のTV 業界は、「ウルトラマン」などヒット作品が次々と生み出され、レベルはあがってきていた。

下手な企画書などでは没になる可能性があった。

ここは真面目に取り組んで、シナリオの一角にくいこまなければいけない。

私はチャンスかもしれない、と思った。

ここで認められれば、名前をあげられるかもしれない。

今まで適当にやっていた私は久しぶりに、真面目に取り組んだ。

S氏はホテルのラウンジやクラブなどに連日通い、適当に企画書をでっちあげている。

私は私の持っているSF的知識を駆使して「円盤戦争」なる企画をまとめた。

S氏はそれを読み「うん、いいんじゃない」といってくれた。  

最終日に、

「これ、俺のと一緒に、だしておくよ。ごくろうさん」

とホテルをあとにした。

S氏は、シナリオライターなどではなく大手映画会社から派遣された、私の見張りだったと後から聞いた。

 

私は自分の持てる力を、十分に出し切ったつもりで来春の放映に期待した。

だが、春になっても撮っている、という噂は聞こえてこなかった。

もちろん放映はなく、放映日から10日ほど過ぎたあたりに、あの企画は没になったとS氏から電話があった。

「やはり…」

と思った。とっかかりのところから調子よく行き過ぎて、一流ホテルに缶詰めになり、さらに大きな直しもなく、OKが出たことに不安は感じていたが、やはり不採用だったのは、ちょっぴり期待していただけに残念さを感じた。

 

TVドラマや映画の企画は、結果が出るまで時間がかかるので、やめようとも思った。

実はそのころ、劇画の原作をいくつかやっており、作品化されるのに一か月もかからなかった。シナリオはすぐに絵になった。文章が絵になったのを見るのは、感動だった。

早ければ、1週間もかからずに絵になっていた。わたしは劇画原作にのめりこんでいった。

子供向け番組のことなどすっかり忘れていた。

それから半年後

「『円盤戦争○○○○』というのがはじまっているぞ。あれ、おまえが企画したんじゃないか?」と友人から言われた。

30分番組のその作品を視聴してみると、確かに私の企画したものに似ていた。しかし、微妙だった。40~50パーセント似た部分はあったが、他は別の創作だった。

これは、エンディングのスタッフロールにあのS氏の名前があるのでは、と探したが、なかった。

S氏に盗作されたのではないか、と考えた自分を恥じた。

業界には、いろんなケースがあることをその時に知った。