私の懐古録 代官山 昭和50年代…01

01今の代官山駅


昭和50年代は、私にとって見るもの聞くもの何もかもが珍しいものだった。

限りなく茨城県に近い千葉に住んでいた私は、東京代官山の会社に入った。

通勤時間は2時間。山手線に乗るまでに1時間はかかるところに住んでいた私には代官山は見知らぬ街だった。

渋谷で乗り換え、東横線で一駅。薄汚れたホームは、先頭の車両がはみ出し、ドアが開かなかった。

もらった地図通りに歩いていくと、大きなマンションが駅前にあり、メイン通りに出るためには、そのマンションを回り込まなければいけなかった。邪魔なマンションだな、と思いながらメイン通りに出ると、ビルが並んでいる。

その一角に代官山診療所があり、ふたつとなりにはしゃれたスナックがあった。確か女の子の名前が店名となっていた。

その店はT字路の交差点の角にあった。信号を渡ると三件目くらいに代官山郵便局があった。地図にはその郵便局を目標に、数軒先のビルの二階を示していた。

数軒先とはいっても、その間の家は広大な敷地のお屋敷だったような気がする。

遠いな、と思いながらも指定されたpacificマンションにやっとたどり着いたのである。

二階の左端の事務室に行き挨拶をすると、専務室で待ってくださいという。

面接は4人。学生風の二人と、おばちゃん風の女性が一人だった。

面接を行ってくれる専務は、なかなか現れない。女子事務員がお詫びかたがた茶を入れ替えに来る。

入社面接を受けに来たわれわれ4人は、それぞれ雑談をしていた。内容は入社試験代わりのシナリオ作品についてだった。ぺらの原稿で20~30枚のショート作品だったような気がする。

みな自作の創作過程について話していた。

学生風の二人は、若々しい新鮮な作りのものだった。一人は、その当時風(学生運動が一段落したころ)の過激さをアピールしていた。もう一人は、ストーリー性がなく感性だけで創作した新感覚の作品だった。

おばちゃん風の女性は、放送作家協会でシナリオの勉強をして、ワイドショー番組などの進行台本をやったことがあるプロだった。進行台本では、出演者にお任せの部分が多く、自分のストーリー作品に結びつかないから、応募したということだった。

作品は、時代劇の泣きがテーマで、キャラクターがしっかりしていた。

あ、この人が本命で採用されるのだなと思った。

私のものは、最後のどんでん返しで、あっと驚かせることに力を注ぎ、キャラクターもテーマも通り一遍の作品だった。

 

一時間遅れで専務がきて、4人の評価を反し始めた。やはり、最高得点は女性の作品だった。次が過激な作品の若者、その次が現代感覚の彼。最後が私だった。

私は補欠で通過したのである。

 

私は次の会社の仕事を考え始めた。小さなプロダクションの編集に応募するか、フリーで持ち込みをしながら、飲み屋でアルバイトをするか…。

 

専務の選評は続いている。

今の段階では、この評価となるが、1年後、5年後にはどう変わっていくかもわからない。過激が面白い、と言われるかもしれないし、現代感覚がブレークするかもしれない。だから、今回は全員合格とする。

 

その翌週から、私はこの会社、映画製作、出版、漫画制作、劇画原作の制作を業務とするところで働くことになるのである。