私の懐古録 代官山 昭和50年代…2
新しくできた「シナリオ脚本部」は3階のエレベーター脇にあった。
できたばかりのせいか、中には机と椅子が5台あるだけだった。
みな壁に向かって並んでいた。原稿を書く際に、お互いが邪魔にならぬように、間仕切りもついていた。
ここで会社の名前で書かれている企画作品を、毎日書いていくのである。
あくまでも練習課題である。
会社では、映画作品やTVドラマ、劇画原作などの企画、制作を架空の名前で提供していた。
架空の名前はプロダクション脚本部制作もあったが、ペンネームの個人名が多かった。
作品は映画作品、TVドラマ、当時はやりだした劇画作品まで,いろんなジャンルに広がっていた。TVドラマや劇画作品は、毎週発表されていた。
それらは、脚本部の先輩ライター達が持ち回りで書いていた。
われわれ新人には、回ってくることはなかった。
ひたすら練習課題を書き続けるだけであった。その出来上がった作品を、専務が講評するという仕組みだった。
講評は厳しいものが多かった。
そして最後には必ず、
「放映(掲載)された作品を見てみろ。金のとれる作品とはどういうものかがわかるだろう」と言われた。
いや、僕の作品のほうがおもしろい、と思っていたが、時々商品化された作品のほうが面白いと、思える回数が、徐々に増えて言った。
悲しいことだった。
自分が誰よりも優れていると思っていた自信が崩れていったのであるから。