私の懐古録 代官山 昭和50年代…2

令和5年の代官山駅ホーム


新しくできた「シナリオ脚本部」は3階のエレベーター脇にあった。

できたばかりのせいか、中には机と椅子が5台あるだけだった。

みな壁に向かって並んでいた。原稿を書く際に、お互いが邪魔にならぬように、間仕切りもついていた。

ここで会社の名前で書かれている企画作品を、毎日書いていくのである。

あくまでも練習課題である。

 

会社では、映画作品やTVドラマ、劇画原作などの企画、制作を架空の名前で提供していた。

架空の名前はプロダクション脚本部制作もあったが、ペンネームの個人名が多かった。

作品は映画作品、TVドラマ、当時はやりだした劇画作品まで,いろんなジャンルに広がっていた。TVドラマや劇画作品は、毎週発表されていた。

それらは、脚本部の先輩ライター達が持ち回りで書いていた。

 

われわれ新人には、回ってくることはなかった。

ひたすら練習課題を書き続けるだけであった。その出来上がった作品を、専務が講評するという仕組みだった。

講評は厳しいものが多かった。

そして最後には必ず、

「放映(掲載)された作品を見てみろ。金のとれる作品とはどういうものかがわかるだろう」と言われた。

いや、僕の作品のほうがおもしろい、と思っていたが、時々商品化された作品のほうが面白いと、思える回数が、徐々に増えて言った。

悲しいことだった。

自分が誰よりも優れていると思っていた自信が崩れていったのであるから。

私の懐古録 代官山 昭和50年代…01

01今の代官山駅


昭和50年代は、私にとって見るもの聞くもの何もかもが珍しいものだった。

限りなく茨城県に近い千葉に住んでいた私は、東京代官山の会社に入った。

通勤時間は2時間。山手線に乗るまでに1時間はかかるところに住んでいた私には代官山は見知らぬ街だった。

渋谷で乗り換え、東横線で一駅。薄汚れたホームは、先頭の車両がはみ出し、ドアが開かなかった。

もらった地図通りに歩いていくと、大きなマンションが駅前にあり、メイン通りに出るためには、そのマンションを回り込まなければいけなかった。邪魔なマンションだな、と思いながらメイン通りに出ると、ビルが並んでいる。

その一角に代官山診療所があり、ふたつとなりにはしゃれたスナックがあった。確か女の子の名前が店名となっていた。

その店はT字路の交差点の角にあった。信号を渡ると三件目くらいに代官山郵便局があった。地図にはその郵便局を目標に、数軒先のビルの二階を示していた。

数軒先とはいっても、その間の家は広大な敷地のお屋敷だったような気がする。

遠いな、と思いながらも指定されたpacificマンションにやっとたどり着いたのである。

二階の左端の事務室に行き挨拶をすると、専務室で待ってくださいという。

面接は4人。学生風の二人と、おばちゃん風の女性が一人だった。

面接を行ってくれる専務は、なかなか現れない。女子事務員がお詫びかたがた茶を入れ替えに来る。

入社面接を受けに来たわれわれ4人は、それぞれ雑談をしていた。内容は入社試験代わりのシナリオ作品についてだった。ぺらの原稿で20~30枚のショート作品だったような気がする。

みな自作の創作過程について話していた。

学生風の二人は、若々しい新鮮な作りのものだった。一人は、その当時風(学生運動が一段落したころ)の過激さをアピールしていた。もう一人は、ストーリー性がなく感性だけで創作した新感覚の作品だった。

おばちゃん風の女性は、放送作家協会でシナリオの勉強をして、ワイドショー番組などの進行台本をやったことがあるプロだった。進行台本では、出演者にお任せの部分が多く、自分のストーリー作品に結びつかないから、応募したということだった。

作品は、時代劇の泣きがテーマで、キャラクターがしっかりしていた。

あ、この人が本命で採用されるのだなと思った。

私のものは、最後のどんでん返しで、あっと驚かせることに力を注ぎ、キャラクターもテーマも通り一遍の作品だった。

 

一時間遅れで専務がきて、4人の評価を反し始めた。やはり、最高得点は女性の作品だった。次が過激な作品の若者、その次が現代感覚の彼。最後が私だった。

私は補欠で通過したのである。

 

私は次の会社の仕事を考え始めた。小さなプロダクションの編集に応募するか、フリーで持ち込みをしながら、飲み屋でアルバイトをするか…。

 

専務の選評は続いている。

今の段階では、この評価となるが、1年後、5年後にはどう変わっていくかもわからない。過激が面白い、と言われるかもしれないし、現代感覚がブレークするかもしれない。だから、今回は全員合格とする。

 

その翌週から、私はこの会社、映画製作、出版、漫画制作、劇画原作の制作を業務とするところで働くことになるのである。

 

 

 

 

 

 

銀杏をなんとよむのか? ?

銀杏と書いてなんと読むのか?

イチョウか、ギンナンか?

広辞苑には、どちらもある。イチョウは、落葉高木、中国からわたってきたようだ。

ギンナンは、イチョウの種子とある。 ちなみにイチョウには、公孫樹と鴨脚樹がある。 三省堂の「明鏡国語辞典」には、銀杏が見出しになっているが、岩波書店の「広辞苑」には鴨脚樹が見出しとなっている。

 

鴨脚をイチョウと読むのはワシが30歳過ぎたころに知った。知人に中学の国語の先生をしている鴨脚◯◯子という女性を紹介されたからである。わしの美意識からは、外れていたが、いかにも女の先生という風貌だった。メガネをかけていたからだろう。京都に住み、由緒ある家の人だったような気がする。

あの人も還暦(60)を過ぎたはずだ。元気にしているのだろうか?

銀杏を食べたい!!

家の近くにイチョウ並木の道路がある。やっと黄色になり葉が落ち始めた。 落ちてくるのは葉だけではなく、ギンナンも落ちてくる。 女イチョウの木からは、毎朝たくさんのギンナンが落ちていて、歩行者に踏みつぶされている。 においが相当に広がっている。 それが嫌だという若い人は多いが、わしは平気だ。 小さいころ、お爺に銀杏の取り方を教えてもらっていた。 かぶれないように軍手をはめ、袋を持って、古くて使えなくなった箸をもって 裏の寺の大イチョウの下に向かった。 樹齢何十年とたった大イチョウから落ちるギンナンは大粒だった。 それを箸でつまみ、袋の入れるのだが、なかなかつかめず、直接手袋をした手でつかむ。 ギンナンの汁が手袋を通し手を汚す。肌がかぶれてかゆくなる、というのが毎度のことであった。 大きなイチョウだからにおいもきつかったはずだが、手のかぶれのことで頭がいっぱいで臭覚は、マヒしていたようだった。 そんな思いをしても、毎年拾いに行ったのは、ギンナンをあぶって実を食べる誘惑にかられていたからだ。 今回も。その誘惑に勝てず、夜中にコンビニの袋をぶら下げ、ビニール手袋2枚はめて、道路わきをよろよろしながら拾ってきた。 今日、身の外側のブヨブヨを取り、天日干しまでいった。 その大変な工程は後日。